つれづれに
あたたかな日差しの1日かと思えば、強風にあおられる雨降りであったり、小雪ちらつく冷え込みの日になったり…お天気がめまぐるしく変化する節分の前後でございました。
父が旅立ってから、10日あまりが過ぎました。
父が家を離れてしばらく経っているため、未だぼんやりとした感触でおります。
ただ、生活と仕事が一体のような私共の職場ですから、小田温泉のあちこちに父の面影があり、そういえば、ここでよくこんなこと(不思議な行動)をしていたなあ…などと、懐かしんでは、皆で思い出し笑いをしながら日々を過ごしております。
家業のかたわら、と申しますが、本業は芸術家であったといって十分差し支えない人生だったと思います。
もちろん、宿の仕事で社長として、いち労働力として請け負っていた役割も大きくはありましたけれども、最大の理解者である自分の妻や優秀なスタッフたちに支えられて、ある程度自由に時間を使えたり、自らの作品の発表の場を常に持てていたことは、世の創作者の方々からみられても、恵まれた環境を手にしていたといわれましょう。
表現者であったからか、世間とは若干尺度が違う部分があり、なかなかに個性的な反応をすることがありました。突如謎の冗句をとばしたり、お客様の姿をみて、さっと姿を隠すようなこともあったと思います(笑)
そのような父の訃報に触れて、多くの方々から心のこもったお悔みを頂戴いたしております。
書の世界での親交も深かったため、毛筆でしたためられた書簡を次々にいただきました。
それ自体が作品であるかのような素敵なお便りばかり。同じく表現者である方からの心のこもったお便りに胸が熱くなりました。
日常を生きる私の知るものとは異なる、芸術家の感性でつづられた石飛鴻の姿がそこにありました。
書画や陶芸はもちろん、野鳥や草木、自然そのものも独特の感性で愛でており、はたごの周りは、父が好いたように自分で手入れをしてきました。
ソメイヨシノの寿命はおよそ100年程度といわれています。
父がはたごを引き継いだ時分は最盛期だった桜たちも、今や立派な大木となり、多くが寿命を迎えつつあります。
若き頃の父は、日々追われるように料理を作りながら、合間で自分の好きな藪椿やサザンカを敷地内に植え続け、いまではおよそ1000本。
桜がさみしくなりつつある敷地に、1年中青々と葉を茂らせ、冬から春にかけて真っ赤の花を咲かせる椿が大きく育っています。
大木が倒れてぽっかり空いたところがさみしく感じ、昨年の秋から、私もとりつかれたようにせっせと木の苗を植えていたのは、父の意向だったのかなともふと思ったり。
3代目主人と大女将が二人三脚で、自分たちの好きなものを集めて好きなように作ったのが、今のはたご小田温泉の姿です。
父はこの世を去りましたが、残していった作品や植物たちは、ずっとはたごの中に息づいていて、これからも未来へ引き継がれてゆく、そう思えば、子としてさみしく思うどころか、むしろ普遍的な価値に照らして、人として羨ましいくらいのことであるように思えます。
創業100年を迎える年に父を送る、なんとも言い難い縁であるように思えて仕方ありません。
お客様からも、なんだか、バトンを渡していかれたようだね、とおっしゃっていただき、私も実にその通りだと感じます。
旅館としての現状は、未曽有の危機であることに違いはないのですが、何とはなしに、これから先の未来も広がっているように思えるのが不思議です。
父の葬儀の日、午前中からお昼過ぎまで眩しいほどの晴れで、夕方から急に冷たい雨となりました。
ちょうど、私が子供の頃、はたごを全力で支えていてくれた親しいおばちゃんたちに挨拶まわりをしていた時のこと。
一時強く降って、小雨になりながら、雲の間から明るい陽がさしたかと思うと、目の前に大きな虹が現れたのです。
始まりと終わりが小田の地内にある、とても太くて濃い虹でした。
ものの数分、驚いて見ている間に、海側の方からすーっと薄くなっていきましたけれども、こんな虹はいまだかつて見たことがありません。
小田の神様がみせてくれたのか、父が渡っていったメッセージだったのか、それはわからないけれども、なんだか瑞兆のような気がしまして。
とりとめもない綴りでございましたが、ここまでお付き合いくださり、まことにありがとうございました。
私的な想いですので、ここへ載せるとお客様のご負担になるのでは、とも考えましたが、石飛鴻作品とはたご小田温泉はきってもきれぬものですから、思いきって、悲しいものにならないよう心がけて書いてみました。
悲しみ偲ぶというより、これからも息づく はたごの精神のひとつとして親しんでいただけますれば、この上ない喜びでございます。
感謝をわすれず、あたたかな宿作りに努めてまいりたいと思いますので、今後とも はたご小田温泉をどうぞよろしくお願い申し上げます。
女将かく